都内の某大学生のブログ。専門の進学先も何とか内定し、ここからが勝負という感じです。気軽にコメント下さい!!
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【冬学期反省①】 結果よりも途中過程を大切に (上)
“大逆転劇の冬学期”でしたが、そこから学ぶべきことも多くありました。
そういった内容を、2年生の夏学期につなげていくために。
そして、これからの1年間をさらなる成熟の年にするために―――
何を求めて行けばよいのか。
また、何を見失わずに前進していけばよいのか。
1年生の夏学期、そして冬学期の経験から学びとり、そして感じ取ることのできた内容を特集します。


第1回と第2回は、「大学の学習哲学」。
大学の学問から最大限の教養を得るためにはどうすればいいのか。
充実したキャンパスライフを送るにはどうすればいいのか。
究極的には、大学生活で何を追究していけばよいのか。

いい意味でも悪い意味でも「特殊な環境」を経験してきた立場から、大学での学習哲学を論じます。



¶.学問の目的

うちの大学は、点数を取るために必死に勉強している学生で溢れ返っている。
これは否定のできない事実だ。
実際、テスト前になるとみんなシケプリと過去問を片手に必死に勉強する。挙句の果てには、カンニングして点数を取りにくる奴までいる。
しかし、私はいつも疑問に思う。
点数のために、テストの直前だけちょこちょこっと勉強して、何が得られるというのだろうか。
彼らは、点数さえ取れればそれで満足なのだろうか。
大学の最大の意味は、本来、「教養と技術を身につける場所」ではないのだろうか。

もっとも、2年生の夏にある進振りでは、すべてが点数によって決まってしまう。だから、点数が不必要だとは言わない。
しかし、点数を取るための勉強によって、進振り後の将来に何が残るというのか。
そこのところを、もっと考えなければならない。

先に断わっておきたいことがあるが、私はこの文章を、夏学期に点数を取れなかった言い訳として書いているわけではない。事実、私自身、夏学期はシケプリと過去問に頼って何とか点数をもぎ取った。しかし、いざ夏学期が終わってみると、点数が低かったという以上に、何も得られた実感がなかったのである。そこで冬学期は、一切、シケプリと過去問を使わずに、独力で日々の学習を進めた。もちろん、壁にぶつかることも多々あったが、それでも自分の頭で考え、悩み抜いて一つ一つの壁を乗り越えていく中で、点数以上にもっと大きなものを得ることができた。
その得られたものを文章にしたのが、この特集であると思っていただければいいだろう。

話を本題に戻すと、私がもっとも理解できないのは、シケ対制度である。
一見すれば、お互いが一番効率よく点数を取れるように、学生同士が協力し合っている素晴らしい制度のように見えるかも知れない。
しかし、その実は、結局のところ、お互いの「本当の意味での学問」を妨げ合っているに他ならない。
「シケ対に頼ればそこそこいい点数が取れるはず」という意識が、学生の学習意欲を削ぐ。そして、本当の学問を見失わせる。
シケ対制度は、「高めあいの制度」ではなく、「落とし合いの制度」なのである。
本当に学問を究めたいなら、まずは独力で求めていくべきだ。孤高を戦い抜いたとき、また新たな視野が開けるし、学問も深まる。そしてその土台の上で、周りの仲間たちと議論し切磋琢磨する。そうすれば、さらに視野が広がり、またお互いを高めあう結果となる。学問の求め方は十人十色だ。それだからこそ、仲間同士で議論することに意味があるのである。
しかし、土台のないところで、いきなり周りの人と議論しても、自分にとっての学問の本質を見失うだけである。一人一人学問の求め方が違う以上、シケプリによってぼんやりと形作られたひとつの統一された方向性に従って学問を求めたところで、まったく自分のものにはならない。そして最終的に、お互いの成長を妨げ合う結果となるのである。

この「点数文化」のもう一つの例として、学生たちの総合科目の履修姿勢があげられよう。
ほとんどの学生は、「進振りの平均点を無駄に下げないため」という理由で、必要単位以上の総合科目を履修しない。しかしこれは、せっかくの学問の機会を、点数のためだけにわざわざ自ら放棄していることになるのではないか。
教養学部生時代にしか学べない内容もたくさんあるはずである。
それなのに、自分から進んで学問の機会を拒否しているのだ。

学問をする目的が「点数を取るため」になってはならない。
あくまで点数は「学問をした結果」であり、「学問をする原因」となってはならないのである。
点数なんて取れた時は嬉しくても、時間が経てばその価値を失う。
でも、しっかりと身に付けた教養は、これからの将来において大切な糧となって行く。
学問の目的は、あくまで学問それ自身でなくてはならない。
そのことを見失ってしまっている学生が大勢いることは、本当に悲しい現実である。



¶.「求めれば与えられる」
大学の講義が高校までの授業と大きく異なる点はなんであるかを考えるとき、最初に思い当たるのが、「求めれば与えられる」ということである。これは裏を返せば、「求めなければ与えられない」ということにもなる。
すなわち、学生がどれだけ教授に対して知識を求めていくのか次第で、講義を通して学びとれる内容は大きく変わって来るのである。実際に夏学期のオレもそうだったのだが、「オレの教官、講義分かりにくいから点数も取れない」などと言ってるのは、単なる言い訳に過ぎず、実際は求める姿勢が足りないから講義を理解できないのである。
私は、冬学期、この「求める姿勢」を重視した。
講義中に最低一つは疑問点や意見を見つけて、講義が終わるとそれを教官にぶつけるようにした。
すると、単に講義を聞いているだけの時よりも、何倍と深い理解が得られるようになるのである。
中には、研究室に私を招待してくれる教官も居た。
教養学部総合文化科、工学部シス創学科、生産技研など、この冬学期の間だけでも多くの研究室を訪れ、最先端の研究の話を耳にすることができた。
進路の方向性はすでに決まってはいるものの、様々な分野の研究の話を聞いていく中で、自分の中の視野が徐々に広がって行くのを実感できた。

《明日の第2回記事に続く》
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